おこしの歴史

平安時代の初期に中国より「お菓子」が伝来した時に始まります。
当時、これらの輸入菓子は「唐菓子」と呼ばれ、このなかに(和名:おこし米)が含まれていました。
これこそがおこしの原形で、その後、長年に渡って日本人に合うよう改良されたのが、現在のおこしです。

栗おこしのはじまり

1752年(宝暦2年)に現在の粟おこしの形状が確立されました。
それまでのおこしは、手で握ったつくねのようなものや、竹筒に入れた形状のみでした。しかも原材料は当時入手しやすかった粟や稗。
味にこだわった初代清兵衛は、原材料に米を用い、板状に延ばし、「粟おこし」と銘打って大々的に発売したのをきっかけに粟おこしは生まれたのです。
わざわざ米を砕いて、粟粒のように見せかけながらも、実は米を使っているという斬新なアイデアが人気に拍車をかけ、砂糖の消費量に至っては瀬戸内で随一であったとも言われております。

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栗おこしと歴史の関係

粟おこしについては、様々な歴史的書物にその存在が記されています。
まず、原形となった粔籹(おこしめ)の製法が和名抄「931年(承平年間)の百科事典」に書かれています。
また当時、粟おこしが食べられていたことを記述している書物に古今著聞集「1254年(建長6年)橘成季著」があり、製法については和名抄「931年頃(承平年間の百科事典)」、料理物語「1643年(寛永20年)」に記述が残されています。
また和漢三才図絵「1715年(正徳5年)刊、寺島良安編」では、現在の粟おこしと同じ原理で作られていたことが分かる内容が記載されています。

菅原道真と粟おこしの伝説

延喜元年(901年)藤原時平との政争に敗れた菅原道真公が九州大宰府への左遷の道すがら浪速の里、元高津の落月寺に立ち寄った時に、土地の者が、その御心情と御旅情を心からお慰めするため、当時のおこし米(現在の粟おこし)をおすすめしたといわれています。
道真公はその風味を深く賞味されて、梅鉢御紋入の衣服を土地の者に贈り、「今後は此の紋をおこしの目印として広く世に伝えよ」とおっしゃったとのこと。以後粟おこしには梅鉢の紋をつけるようになったといわれています。

新たなおこしづくり

つのせは、創業して以来、常に品質の向上と時代に合った商品開発に努めてまいりました。
当社の長い歴史のなかでも特に、幕末に落花生が輸入され人気が出るやいなや、それまでの板状の粟おこしを小切れにして一口サイズにし、原料も粳米から糯米に替え、落花生を入れて時代の味覚に合った新しいおこしを作り出しました。
以後も、時代による人々の嗜好によって、味や固さなどを微妙に変えてきたつのせの粟おこし。
味にうるさい浪速の人々が時代を経ても飽きずに食べ続けていただけるのは、常に庶民の味覚に目を向け、進化し続けてきた証であると受け止めております。